8th Sep.

2005年。名古屋の楽器技術専門学校を卒業した当初はまだウクレレよりもギターの音に傾倒していました。

 

たまたま卒業製作に誰もやろうとしなかったウクレレを作ってみただけに過ぎなかったわけで、まさかその数年後にそれを生業にするなんて夢にも思ってませんでした。周りの卒業後の主な進路は楽器関連の企業でした。製造系ではモーリスや星野楽器、ヤマハ、寺田楽器…などの有名ブランドへ。キョーリツなどの卸業へも多数が就職。そんな中で、自分は楽器業界には就かずに岐阜県の御嵩町へ。

 

 

楽器製作に憧れを抱くきっかけだったのは24歳のときにテレビで見たヤイリギターの特集。さらにその中で棟梁の小池ケンさんの勇姿に一目惚れしたこと。その流れであればヤイリに就職を考えて当然かと同期も思っていたかもしれませんが、ヤイリにアプローチをかけることはせずにその隣町の月二万のアパートに住むことに。もう少し若いころ、例えば十代に専門に行っていたらストレートにそうしたと思います。

 

 

 

そうしなかった理由は一度社会人経験を通過した上での自己分析。自分は上手な人の真似をしてみたり他人の失敗を見て学んで成長できるタイプではない。自ら失敗を繰り返しながら自分の考えやノウハウを作り上げて行くことに喜びを感じる。さらに良くも悪くもそれまで積み上げてきたそれらに疑問を持てばアッサリと捨てて違うやり方でやり直すことに躊躇しない。オーセンティックなものの価値を何も咀嚼することなく受け入れることはしない。自分なりの考えや辿ってきた変遷の先にオーセンティックなものに価値を見出したのなら初めて受け入れる。そんなやっかいな人間だというか、変わり者であることをある程度の社会人経験の中で自覚していました。

 

 

 

 

 

木工道具の扱い方だけはきちんと2年間で学びたかった。だから楽器技術専門学校で楽器技術に必要な木工を学びに行きました。卒業後。自己分析通り、既存のメーカーには就職せずに全く他業種に就いて最初の一年間は会社から帰宅後は毎晩刃物研ぎを続けました。どんな楽器を作っていくのかわからなかったけど、いつかオーダーが来たときのために。そしていつか工房を持ったときに使って行く日々を夢想しながら。

 

 

 

 

月二万の6畳間の部屋にギターを作るだけの作業スペースはありませんでした。刃物研ぎをしていたのは半畳の玄関。やがてそこに小さな作業机を置きます。2年目、専門学校で最後に作ったウクレレの大きさならばここでも作れるかも知れない。そう考えて作ったのがアマチュア時代の幕開けとなりました。ウクレレのウの字も知らない。形も大きさもよく知らない。出来上がったのは洋梨形のコンサートよりも少し大きなウクレレ。塗装はセラック。ギターの音しか知らなかったので出来上がったものの音の良し悪しの判断は難しかったですが久しぶりに作った楽器はやっぱり楽しかったことを覚えています。周りの同期がきっと楽器業界で活躍しているだろうと思いを馳せながらもクロネコヤマトの引越しのアルバイトからスタートした卒業後の暮らし。

 

 

 

 

引越しの仕事っぷりを評価してくれた可児市の営業所の先輩が社員に推薦してくれたことですぐにヤマトの臨時社員に。けっこうどころかかなりハードな仕事を朝から晩まで毎日。偶然にも毎朝一軒目の配達先はヤイリギター。一日150件前後の荷物を時間指定に従って配達。お中元とお歳暮の繁忙期には300を超える荷物。帰宅後はかなりヘトヘトだったけど刃物を研ぐ夜。配達エリアの全ての道と家を頭に叩き込んで仕事にも慣れてきた2年目に久しぶりに作ったウクレレ。順番が逆かも知れないけどそのとき初めてウクレレの音楽に興味を持ちました。そこで聴いたのがオータサン。これには驚きました。ハイポジのピッチなんて合わなくて当然の楽器と思っていたウクレレでリードを取ってジャズを演奏している。勿論ハイポジ多用。リードの合間合間の裏拍に乗せて心地よいコードストロークが入る。まるで二人で弾いているかのようだけど、どうもこの人一人らしい。あとで知ったらしかもソプラノという一番小さいサイズでこれを弾いていた。なんちゅうこっちゃこれは。ウクレレってこんな凄いことできんのか。まさにそんな感じの思いでした。単に小さいものしか作れない制約の中でウクレレを作ったのが、純粋にウクレレを作って行きたいと願った瞬間でした。それまではギターでもない、ウクレレでもない。何か新しいものをと漠然と考えたりしてたのがウクレレを極めたいという願いに。

 

 

 

 

その後、ヤマトの正社員登用試験に合格して年収もぐっと上がりました。3年目に当時の上司の推挙で営業所のセンター長になってしまいました。断れる空気じゃなかった。ただでさえ配達業務に追われてるのに所内の人間管理まで任されてしまいました。これは予想外の展開でした。最後の夜間配達が終わってセンターに戻って集計作業をして翌日の準備を済ませた後さらにセンター全体の集計作業やら岐阜本部に要求される諸事の処理をして帰宅するのが毎晩10時か11時。そこから深夜1時までウクレレ作り。良かったことは年収がさらに上がって戸建の賃貸に引っ越せたこと。しかも一人暮らし。月二万のボロアパートからレベルアップ。ウクレレ製作部屋がある暮らし。これは楽しかった。

 

 

 

4年目の終わりごろに初めてウクレレのオーダーが入りました。とんでもなく嬉しかった。それから徐々に当時のブログを通じてオーダーが増えて行きました。ヤマトの仕事は忙しさを増して行きました。センター長2年目のとき、それまでは一つの建屋に可児市と御嵩町を3つのエリアに分担していたのをエリア見直しがあって2分割に統合編成されました。3センターが2センターになり、担当エリアがさらに広くなった上で管理しなくてはいけない人員も増えたわけです。エリア内の取引先企業も増えました。配達区分の見直しから運賃契約の見直しまでノルマが一気に増えました。当然誰も助けちゃくれません。センター員同士の不平不満を聴いてる暇なんてありませんでした。文句言ってる暇あったら自分でなんとかして。14人もいるんだから勝手なこと言ってたらまとまりません。とにかく自分が指示した通りに動いてくれ。こんな毎日。要するにそこまでの器がなかったわけです。そんでも任された以上はやらない訳にはいかない。ほとんど意地でした。そんな中で皮肉にもウクレレのオーダーは順調に増えて行きました。センター業務は多忙を極めます。

 

 

 

7年目に入ったころ、このままでは自分がパンクする。そろそろどっちかを選択するころだ。先の見通せない自ブランド立ち上げによる楽器製作業に転身することへの迷いはなかったと言えば嘘になります。それでも千葉から縁も所縁もない東海地方に来たそもそもの理由は楽器を作りたいと思ったからです。アルバイトから始まったクロネコヤマトを辞める決心をして上司に辞表の入った封筒を手渡した朝。何だ。こんなにあっさり会社って辞めれてしまうもんか。こんな紙一枚で。あんなにも必死に働いてきたのが嘘のようでした。でも、良かった。これで真っ直ぐに本当にやりたかった道を歩き始めることができる。それから3ヶ月の間、開業の準備。翌2013年に税務署に開業の申告。

 

 

 

そして今、製作家5年目。最近になって分かったことですが昔考えていた新しい楽器を作ることの必要は全くなく、むしろ従来通りのウクレレをさらに磨きのかかった精緻なものにすることが日本人ウクレレ製作家の使命だと感じるようになりました。ソプラノやソプラノロングのような小さなウクレレがハイポジまで綺麗に鳴り響くことほど新しく斬新な感動を最も顕著に感じるのではないか。そう考えてます。製作家になってからたくさんの出会いに恵まれて今があります。今年は網膜剥離という大きな困難にも見舞われ、手術入院から作業再開まで正味3ヶ月の停滞を余儀なくされました。それでもさらにモチベーションは上がる一方です。なにせ、歩きたい道を歩いてるわけです。これ以上の幸せなんてないでしょう。今年も東海地方を中心にたくさんの方からのオーダーを頂戴してます。そのおかげでまだこの道を歩き続けることができるんだという感謝の想いを一日として忘れることなく日々精進して参りたいと思います。ほんとうに皆様、ありがとうございます。